アユは、「安由」「阿由」の漢字が使われることもありましたが、古来から現在に至るまで不変の名称でした。独特な香りから「香魚」、1年で一生を終えるため「年魚」、鱗が細かいので「細鱗魚」、口が白く目立つから「銀口魚」、俳諧の歳時記では「柳葉」とも呼ばれています。
神武天皇が即位される前、「飴の壺を川に沈めて、魚が浮かんできたら大和を平定できる」という夢のお告げがありました。そこで神をまつり壺を沈めると、鮎が浮かび上がり、大和を治めることができたそうです。
また神功皇后が朝鮮出兵の際、神に祈念しながら川に糸を垂れたところ、鮎が釣れ、皇后は無事に航海できたなど、鮎には縁起の良い逸話が残され、「鮎」は魚へんに占うと書くようになったと伝わります。
鮎は、幸先の良い吉兆の魚、天皇家と深い関係をもつ日本を象徴する魚だったのです。
昆布は宮廷への献上品として、延喜式にも登場しています。古くは「夷布(えびすめ)」、「広布(ひろめ)」と呼ばれていました。語呂合わせですが「恵比寿」や「披露」、「よろこぶ」に通じることから、日本人は昆布を縁起物として、ひろく愛用してきました。
昆布の流通は、江戸時代の中ごろから明治にかけて大坂と蝦夷地を結ぶ北前船が担っていました。北前船が登場する以前は、近江商人が活躍していました。北海道の産物を敦賀の港で荷揚げし、琵琶湖を利用して大津まで運び、大坂へ……。
昆布は近江商人とも縁が深い食材のひとつで、「鮎」と「昆布」との出会いは、予め用意された必然だったのかもしれません。
あゆの店きむら自慢のあゆの昆布巻きは、幸先よしの鮎とめでたき昆布、いずれも初春にふさわしい縁起物を取り合わせた逸品です。
新しい年を迎える慶びは、幾歳月をくりかえしても心うれしいものです。初春を寿ぐ食卓にふさわしい品々を。
みなさまのご多幸とご健康をお祈りして、心をこめて、あゆの店きむらがお届けいたします。
鮎の旨みに、さらに磨きをかけるべく、北海道産の特厚昆布をパートナーに使用。とろけるほどの柔らかさに、鮎の旨みと昆布の香りがとけあって、味わいは素朴にして、玄妙風雅。
琵琶湖産のホンモロコは、コイ科の淡水魚のなかでも特に美味で、昔から冬の時期に獲れるホンモロコは身が引き締まり骨もやわらかく絶品といわれ、子持ちは更に珍重されています。
琵琶湖にはスゴモロコ、デメモロコ、タモロコが棲息していますが、ホンモロコは固有種です。モロコは漢字で「諸子」。「諸々」は「多くのもの」「さまざまなもの」の意味がありますから、一般的な魚だったことがわかります。かつては身近な美味しい魚でしたが、近年、ブラックバスやブルーギルの影響で激減し、今では滅多に食べられない高級魚として扱われています。
あゆの店きむらでは「本物のホンモロコ」という気持ちを込めて商品名を「本もろこ」としています。じっくりと炊きこみ、まろやかで深みのある風味に仕上げました。
冬は、しじみが美味しい季節です。湖底の砂に潜ったしじみはたっぷり栄養を蓄え、この時期に獲れるしじみは特別に「寒しじみ」と呼ばれます。
あゆの店きむらの「しじみ味噌汁」は、「セタシジミ」を使用しています。体に良いといわれるオルニチンやタウリンなどの多くの栄養成分が含まれています。栄養豊富でコク・旨味たっぷりの琵琶湖産天然セタシジミのお味噌汁で、ほっこりあたたまりませんか。
セタシジミは琵琶湖の特産(固有種)で、ヤマトシジミなどに比べ、殻が厚く、コクがあるといわれています。味噌汁の風味をより一層引き立たせ、味わい深く仕上がっています。
藤ヶ崎龍神内宮 龍宮城
近江は龍の国かもしれない。「絶景のパワースポット」として知られるようになった「藤ヶ崎龍神」(近江八幡市)は、外宮と内宮があり、外宮は湖に面し磐座の前に社がある。内宮は外宮と向かい合う山の岩と岩の間にあり、妙得龍神が祀られ、龍宮城がある。平安時代の宮廷画家・巨勢金岡(こせのかなおか)が風景を描こうとしたが、絶景のあまり終に筆を折ったという伝承の地である。
2024年は、十干が「甲(きのえ)」、十二支が「辰(たつ)」の「甲辰」の年。「甲」は十干の一番目、「辰」は権力・隆盛の象徴である「龍」、十二支で唯一の空想の生きものだ。どんな1年にするかは自分しだい。今まで培ってきたものを信じて良いスタートを切りたいものである。
さて、龍宮の話である。
三上山(野洲市)は別名「近江富士」と呼ばれる美しい稜線の山だ。 平安時代この山を7巻半する大百足が棲み、野山の生き物、湖の魚を食い荒らしていた。 退治したのは、「打物(刀剣・槍などの打ち鍛えて作った武器)を取っても、弓を引くにも、肩を並ぶべき輩もなし」といわれた藤原秀郷である。
承平年間(10世紀前半)、秀郷は勢多(瀬田)の唐橋で琵琶湖の龍神に武勇を見込まれ、「三上山に巣くう大百足を退治して欲しい」と頼まれた。早速、弓と3本の矢を持ち、勢多の浜から三上山を見据え待ち構えると辺りは一変。比良の高嶺の方より松明2、3千余り、三上山の方から響く百、千万の雷電は、山を動かすほどだった。そしていよいよ大百足が姿を現した。眉間の真中を狙い矢を射るが、2本とも鉄のように硬い身体にはじき返されてしまった。秀郷は最後の矢をつがえる前に矢先を口に含み唾をつけ、渾身の力で射ると、矢は眉間に深く刺さり大百足は息絶えた。秀郷はその功により竜神から、裁てども裁てども尽きない「巻絹」(反物)2つ・取り出しても取り出しても米が尽きない「首結ふたる俵」・思うままの食物がわき出る「赤銅の鍋」などを賜った。さらに後日、龍宮に招かれ、金作りの剣・黄金札(こがねざね)の鎧・赤銅の釣鐘を授かる。
タイやヒラメが舞い踊る龍宮城は海中にあると誰もが思っているにもかかわらず、秀郷が琵琶湖の龍宮に招かれたことを、人々は何の疑問ももたずあたり前のこととして受け入れてきた。平将門を討ち東国を平定した英雄潭である。瀬田(南郷)の洗堰が明治38年に建設される以前は琵琶湖でも海の魚が捕れたことがあるというから、タイやヒラメの舞い踊る龍宮が琵琶湖にあったとしても不思議ではない。
日本に漢字を伝えた中国では「鮎」という漢字は「ナマズ」をさす。寛政5年(1793)から文政2年(1819)に刊行された『群書類従』(ぐんしょるいじゅう)25巻「竹生嶋縁起」には、竹生島で龍が大鯰に変じて大蛇を退治した伝説が書かれているという。
鮎、ナマズ、そして龍。湖の龍宮、繊細なガラス細工のような氷魚(鮎の幼魚)が群れ泳ぐ……。「甲辰」の年、湖の美しいイメージだけがひろがっていく。
彦根城は1992年、世界遺産暫定リストに掲載されたが、その後30年を過ぎた今も国の登録推薦が見送られている。2023年7月4日、ユネスコの諮問機関が事前に関与して助言する「事前評価」を活用して登録を目指すと政府の発表があり、滋賀県と彦根市は2027年の登録を目指すことになった。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦後、彦根藩初代藩主となる井伊直政は、徳川家康により石田三成の居城・佐和山城を与えられた。直政は琵琶湖に面した磯山に新城築城を計画したが、慶長7年病没。嫡男直継は幼かったため、最終的に家康が候補地のなかから彦根山(金亀山)に築城を決定したという。この城が世界遺産登録を目指す彦根城である。別名を金亀城という。築城以前この山は観音霊場で、山上にあった寺院に金の亀に乗った観音像が安置されていたためと伝わっている。
西国三十三所観音巡礼の第三十一番札所の長命寺は、標高333メートルの長命寺山の山腹に鎮座する。あゆの店きむら八幡堀店(近江八幡市)の近くだ。
実は、長命寺山も別名を「金亀山」という。西国三十三所観音巡礼の第三十二番は観音正寺(近江八幡市)、第三十三番は華厳寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町)である。華厳寺を目指す途中の彦根山は「観音霊験天下無双の地」(『湖の国の中世史』髙橋昌明著)として知られ、この人気は天狗の仕業とまでいわれたという。長命寺山がなぜ「金亀山」の別名を持つのかわからないが、「二つの金亀山」は観音巡礼において何らかの理由で結ばれていたのかもしれない。
彦根城の天守は国宝である。彦根藩主井伊家の歴史を記した『井伊年譜』には、「天守ハ京極家ノ大津城ノ殿守也」とある。
大津城は天正11年(1583)に羽柴(豊臣)秀吉が大津港を守るために築かれ、初代の城主は浅野長吉(長政)。その後、増田長盛、新庄直頼、そして文禄4年(1595)、京極高次が6万石で入城する。
関ヶ原合戦の前哨戦となった大津城攻防戦で、高次は徳川家康側に与(くみ)し、関ヶ原に向かう毛利軍約1万5千を足止めし、勝敗に大きな影響を及ぼしたといわれている。合戦後、家康は三成の居城である佐和山城を陥落させ、その後大津城に入り、戦後処理を行っている。最初に着手したのが大津城の再建だった。しかし、低地にあり軍事的にリスクのある立地だったため廃城となり、新たに膳所城が築城される。この大津城天守が解体され、彦根山に移築されることになるのだ。
『井伊年譜』の「天守ハ京極家ノ大津城ノ殿守也」の後には、「此殿守ハ遂二落不申目出度殿主ノ由」とある。家康は大津籠城戦において落城しなかった、めでたい(縁起の良い)城であると考えたのである。
初詣に彦根城を訪れる人は多い。築城以前、観音霊場だったからだと考えていたが、「落ちなかった天守」という「めでたい」イメージが意識下で受け継がれてきたのだろう。しかも、江戸時代を切り拓き、徳川の平和を象徴する城である。今の時代の初詣にはピッタリなのかもしれない。平和を祈り、受験や就職試験など幸運や勝運を祈る……。
彦根城の世界遺産登録に長い歳月が必要だったのも「落不申目出度殿主ノ由」なのではないだろうか。2027年の世界遺産登録に期待したい。
*「事前評価」というのは、自国の世界遺産暫定一覧表記載資産の世界遺産登録をめざす締結国が、推薦書の本提出前に、顕著な普遍的価値などについて諮問機関(イコモスなど)より技術的・専門的助言を受けるという制度。