月のうさぎが湖を奔る

緑樹影沈んで
魚木に登る気色あり
月海上に浮かんでは
兎も波を奔るか
面白の島の景色や

謡曲(能)『竹生島』は、醍醐天皇の朝臣が竹生島の弁才天の社に詣でようと、琵琶湖にやって来る話である。醍醐天皇は親政を行い、地方政治や制度・文化面で数々の業績をおさめた。律令政治の理想とされた時代を築いた人物である。菅原道真の太宰府左遷でその名を記憶している人も多いだろう。
 琵琶湖の北に浮かぶ竹生島は、古来より信仰の対象となった島である。水の神弁才天を祀り風光明媚、都人からも讃えられたという。
 現在、都久夫須麻神社(竹生島神社)、宝厳寺(西国三十三所三十番)社殿がこんもりした島の南側斜面に建っている。おそらくその位置は平安の頃とかわりはない。
 謡曲の一節は幻想的で美しい。
 緑の木々が湖面に深く影を落とし魚が木に登る、そして、月が湖面に浮かべば兎(うさぎ)も波を奔るだろうか。昼間から夜へ、近景から遠景へ……、竹生島を訪れたことのある者ならば思い浮かぶ素晴らしい景色が謡われている。都人の憬れの島だったのかもしれない。YouTubeやInstagramがない平安時代、この謡曲は雅な人々の「いいね」をどれほど獲得したことか。
 ところで、家紋や焼き物の図柄で親しまれている日本の伝統的文様に「波うさぎ」がある。「波にうさぎ」「波のりうさぎ」とも呼ばれるが、文字通り波間にうさぎが跳ねている。実はこの文様は「竹生島文様」とも呼ばれることがある(竹生島文様と名乗るには幾つかの要素が必要なのだが、この話は別の機会にする)。謡曲『竹生島』に由来する淡海発祥の文様だ。
 竹生島の宝厳寺唐門(国宝)は、秀吉の大坂城唯一の遺構だ。秀吉が何を思って兎のデザインをOKしたのかは判らないが、竹生島に移築され、月のうさぎが波を奔る姿を見ることができる。この偶然は実に面白い。
 2023年の干支は「癸卯(みずのとう)」。「卯」はうさぎ、「癸」も「卯」もこれまでの努力が実り飛躍のイメージがあるという。「あゆの店きむら」としては、湖面に映る緑樹を登る魚が何なのか気になるところである。

子持ちあゆの姿煮

自然の麗姿もそのままに、日持ちよりも美味しさに心を込めてとろ火でじっくりと炊きあげています。 お箸で簡単にほぐれるほど柔らかく、頭から尾まで余すことなく召し上がっていただけます。 ふっくら、やわらか、粋で贅沢な鮎の名品です。

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あゆの姿煮

「あゆの店きむら」は昭和60年(1985)頃から「天然ものに負けない養殖鮎を育てよう」と志し、養殖方法にさまざまな工夫を重ねてきました。養殖池の水はミネラル豊富な鈴鹿山系の伏流水を使い、自然に近い環境で育てるために水車で川の上流部のような速い水流を再現しています。更に、水流に適度な変化をつけ、鮎が遊べる場所を設けるために八角形の池で育てています。
 琵琶湖産鮎は、平成19年に地域団体商標に登録されました。
 人工的に孵化させて育てた鮎と比較して、①姿・形が美しいこと ②ウロコが細かくなめらかであること ③骨や皮がやわらかいので食感に優れていること、があげられています。
 「あゆの店きむら」では、この琵琶湖産鮎を養殖用の種苗として使用しているので、同じ特長をもった鮎が育ちます。
 餌には脂肪分をあまり配合せず、長い期間をかけて育てます。脂肪分を多く与えた方が鮎は早く育ちますが、それでは天然もののような味わいを再現することはできません。但し、脂はおいしさの条件で適度な脂肪は必要です。絶妙な味わいの鮎を育てるために、今も試行錯誤を繰り返しています。
 甘露煮などの加工は「少量手づくり」を基本に、手間と暇をかけて丹念に仕上げています。全ては天然鮎に負けない琵琶湖産養殖鮎へのこだわりによるものです。

氷魚? 霰せば網代の氷魚を煮て出さん

琵琶湖では鮎の幼魚を氷のように体が透きとおっていることから「氷魚(ひお)」と呼びます。「こおりのいお」、「ひうお」、「ひのいお」の呼び名も伝わります。大きさ2~3センチの繊細で美しいガラス細工のような魚です。氷魚が獲れるのは12月?3月頃で、5月頃には小鮎と呼ばれるようになります。
 近江を愛した芭蕉は「霰せば網代の氷魚を煮て出さん」と詠みました。句意の解説は専門家に任せるとして、湖の鮎と暮らす「あゆの店きむら」の私たちは、空から落ちてくる霰(氷の粒)が湖面に落ち、カタチを変えて氷魚になるような幻想的なイメージを想い浮かべます。
 「あゆの店きむら」は、「氷魚(稚あゆ)の釜あげ」と「粒山椒入稚あゆ煮」を商品としてお届けしております。氷魚のしっとりとした繊細な味わいの釜あげ、木の芽の香りがアクセントの稚あゆ煮、どちらも琵琶湖畔でしか味わえない冬の味覚として愛されてきました。
 「煮て出さん」というのは、「釜あげ」なのか「醤油煮」なのか……。
 獲れたての氷魚に熱を加えると、一瞬で白くなり、鍋の中で泳いでいるようにも見えます。霰が透明な氷魚に、そして綺麗な白に……。おそらくは、釜あげではなかったかと想うのです。
 芭蕉が詠んだ琵琶湖の冬、湯気がたちこめる草庵の光景が浮かんできます。

氷魚(稚あゆ)の釜あげ
粒山椒入稚あゆ煮

早春から販売を予定しています。毎年、獲れたて炊きたての氷魚をこ゛用意いたします。数に限りか゛あり、不漁場合こ゛提供て゛きない場合もこ゛さ゛います。

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鮒ずしの物語

ハレの食べ物

琵琶湖畔ではフナをはじめ、ウグイ、ハス、モロコ、アユ、ハイ、ビワマス、コイ、ドジョウなどを米を糠床のようにして漬け込む「なれずし」の食文化が受け継がれている。発酵が進むにつれて「馴れる、熟れる」ことから「なれずし」と呼ばれる。鮒ずしは、平成10年(1998)、滋賀県の無形民俗文化財の「滋賀の食文化財」として選択され、近江を代表する「なれずし」となった。神社の祭礼に神撰として奉納されることも多いハレの日の食材である。優れた保存食としてだけではなく、客人のもてなしにも登場する。
 琵琶湖には、ゲンゴロウブナ(源五郎鮒)、ニゴロブナ(似五郎鮒)の2種の固有種が棲息している。両種とも鮒ずしに用いられているが、特に未熟卵(腹子)を抱えたニゴロブナが最上とされる。
 「あゆの店きむら」では、主に湖の北で捕れた天然のニゴロブナを厳選し漬け込んでいる。鮒に詰める飯は、コシヒカリ、キヌヒカリ、ニホンバレの近江米3種類をブレンドしたものを使用。近江盆地特有の暑い真夏、寒暖の差が激しい秋、そして伊吹颪(おろし)が厳しい冬を過ごし、1年以上の月日と手間暇をかけてできあがる。まさに近江の風土が育む特産品なのである。
 鮒ずし通は尾ビレから二切れ目を好むと聞く。鮒ずし好きは、醗酵した飯にも目がないという。暖かいご飯とともに食べるとこの上ない旨さなのだという。

源五郎鮒

ところで、ニゴロブナの名は、その姿形がコイに似ているから「似鯉鮒」、あるいはゲンゴロウブナに似ているから「似五郎鮒」に由来するという二説がある。
 曲亭(滝沢)馬琴の『壬戌羇旅漫録(じんじゅつきりょまんろく)』に「近江の源五郎鮒は。一説に佐々木家一國の主たりし時錦織源五郎といふ人。漁獵のことを司る。湖水に漁りたる大鮒を。年々京都将軍に獻ず。その漁獵の頭人たるによりて魚の名によび來たれり。」と書かれている。「錦織源五郎」から「源五郎鮒」と呼ばれたという話は他にも数々あり、錦織源五郎が織田信長に献上したというものまである。「佐々木家一國の主たりし時」とあるので平安時代後期以降、ゲンゴロウブナは湖魚として認識されていたということになる。

錦織源五郎

面白いのは「錦織源五郎」だ。
 宮城県登米市東和町錦織沼山の「機織沼」(水面の広さ3・6ヘクタール)は、「舟不入沼」とも呼ばれ、伝説・伝承の多い沼である。そのひとつに「江戸時代には近江の錦織源五郎が、ゲンゴロウブナの繁殖を試みた」、あるいは「コイの養殖を試みた」というのだ。「錦織沼山」の地名は源五郎の姓から名付けられたに違いない。ウェブで調べてみるとこの沼、「源五郎鮒の名産沼と称せられた」と書いてあった。
 「近江の国からきた錦織源五郎」。世界中で愛されているイギリスの作家J・K・ローリングによって著された『ハリー・ポッター』のなかで、ハーマイオニー・グレンジャーは「根拠のない伝説はない」と言っている。中世から江戸時代まで錦織源五郎とゲンゴロウブナは関係を保っている。錦織は地名にまでなっているので、源五郎鮒の名前の由来は錦織源五郎あると考えて間違いはないように思う。ところが「似五郎鮒」に関する伝説や伝承が見つからない。ゲンゴロウブナに似ているからというが、姿形はコイに近い。最上の鮒ずしとなる鮒に、コイやゲンゴロウブナに似ているからという、安易な名を与えるだろうか……。

煮頃(二ゴロ)

ここからは妄想だが、近江の人は他国の人々にこのニゴロブナを鮒ずしにしたときの美味を知られたくなかったのではないだろうか。「コイに似ているだけの、ゲンゴロウブナに似ているだけの鮒でございます。煮るのが頃合いの鮒でございます」と……。
 故に、ニゴロは「煮頃」かもしれない。
 平安時代に編纂された『延喜式』に「鮨鮒」が献上されたとあるが、フナの種類は書かれていない。ニゴロブナがもてはやされるようになったのは江戸時代以降と聞いている。ニゴロブナは稀少でその鮒ずしはよほど旨かったに違いない。

富士山と琵琶湖

日本最高峰の富士山(3776m)は「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」として2013年に世界遺産となった。「あゆの店きむら」のある彦根市は、2025年彦根城の世界遺産登録を目指している。
 「大正の広重」と呼ばれた吉田初三郎は、大正から昭和初期の大観光ブームの最中、日本内外の旅行パンフレットに鳥瞰図を描いた人物である。上空から鳥の目でみたように描いた大胆な構図は、極端にデフォルメされていたが、わかりやすく詳細な情報が盛り込まれ人気だった。初三郎の手がけた鳥瞰図は3000以上、必ず富士山が描き込まれている。
 『琵琶湖遊覧御案内』(大正15年・太湖汽船株式会社)もそのひとつで、「富士と琵琶湖、そは世界に対して我等日本人が優美を誇る象徴の双璧であらねばならぬ。あまねく全国に写生旅行を試みたるも、未だ琵琶湖のごとく、交通至便にして風光美の雄大なるを見ず」と初三郎は書き記している。
 日本の神々が集まって,日本一高い山と日本一大きい湖をつくろうと、近江国で掘った土をもっこ(土石運搬に用いる道具)で駿河国に運び、富士山と琵琶湖が一夜でできあがったといわれている。
 国宝・彦根城は琵琶湖を見おろす金亀山に築城された平山城だ。世界遺産登録が叶えば、神々がつくられた日本の双璧、そして日本の神々にも注目が集まることだろう。

多景島(たけしま)と竹生島(ちくぶしま)